「聖霊を求めつつ」 04.01.11
ルカ12:8〜12
人ではなく、自分自身でもなく、神さまの前で、神さまのまなざしを受け
ながら生きるところに、健やかさや確かさが生まれると信じています。
しかし、そのように歩みをするためには、聖霊の助けが必要です。
私たちは偽善に陥るからです。
聖書の「偽善」という言葉には、「演技」という意味も含まれます。
ですから、信じているのに信じていないかのように振舞う事も偽善です。
12章は、イエスさまが、弟子たちが恐れや不安にであった時に偽善に陥る
危うさを持っていることを見抜いておっしゃった言葉です。
それと同じ危うさは、私たちも抱えています。私たちも、職場や家庭で過ごす
中で、イエスさまのことを知らないかのように語り、行うことがあります。
神さまの前で生きることの確かさを知りつつも、無意識のうちに、神さまを
脇に追いやって、語り、行う事があります。
それも偽善なのです。偽善は私たちと無縁ではありません。
ここには、信仰生活の襟(えり)を正そうとされる主のお言葉があります。
この厳しさを含む主イエスのお言葉を、弟子たちが人々に伝えました。
その弟子の中には、主イエスのことを「知らない」と三度言ったペトロもいます。
彼は、どんな思いで主の言葉を伝えたのでしょう。「イエスさまを知らないと
言ってしまった自分は、イエスさまから知らないと言われてしまうのです…。」
そんな失意と絶望の中で伝えたのではありません。喜んで語り伝えたのです。
なぜか。彼は、偽善を犯してしまった自分の罪、弱さ、情けなさを赦すために、
主が十字架にかかられたことをはっきり知ったからです。聖霊の助けによって
そのことをはっきりと知り、信じる者となりました。だからこそ、喜んで、
主のお言葉を伝え始めたのです。
聖霊は、私たちの目の前に、主の十字架の恵みを映し出し、私たちが
救いの確信を得られるように助けてくださいます。
そのようにして、神の前で生きる者としての歩みを支え、励まし、整えて
くださいます。